パンクの精神を作った男、ジョーストラマー

音楽

こんにちは!

今回はピストルズと共に活躍した元祖パンクバンド、THE CRASHのフロントマン、ジョー・ストラマーをご紹介いたします。

クラシュといえば、ロンドンコーリングが有名ですよね!ジャケットがかっこよくて、よく雑貨屋さんなんかで見かけますよね!

僕はThe Cricketsを、パンクカバーしたI Fought The Lawが大好きです!

原曲からカバーしてここまでイケてるパンク風にした、THE CRASH、本当にお見事です!

クラッシュはイギリスの、セックスピストルズと共に活躍したパンクバンドで、ピストルズと違って硬派で精神性や音楽性を重視していたバンドといわれており、パンクの中でもピストルズと対象的なパンクバンドだって言われています。

更にクラッシュのヴォーカル、ジョー・ストラマーは、日本のロックミュージシャンに絶大な人気があって、元ブルーハーツの甲本ヒロトさんは彼を地球上で一番かっこいい人物と語っています。

ジョーは、いつも社会的に立場の弱い人に寄り添っており、大スターなのに普通に地下鉄を使ったり、お金の無いファンをライブハウスにこっそり入れてあげたり、金銭的な成功よりも人々を勇気づける活動に意味を見出していたようで、こんな硬派で優しいところが彼の魅力なんでしょうね。

更に彼は、パンクに対する魂を作った人だと言われており、Punk is attitude. Not style.という名言を残しています。つまり、パンクは形じゃなくて、中身だってことですね!

更に彼の音楽は、日々進化しており、後半にはレゲエのビートを取り込み、昔からのパンクサウンドをかなり革新的に変化させています。

今のスカ・パンクは、彼らがいなければ産まれなかったとか言われていますよね。

さて今回は、今でもいろんなロック・ミュージシャンに影響を与え続けているTHE CRASHのフロントマン、ジョー・ストラマーの人生を追っていきたいと思います!

ポイント①

1952年8月21日、ジョー・ストラマー、本名、ジョン・グレアム・メラーはトルコの首都アンカラに産まれます。

父が外交官だったことから、幼少期はエジプトや、メキシコ、ドイツなどを点々とし過ごし、

10歳の頃には、一つ上の兄のデヴィッドとともにロンドンの私立学校に入学します。

その後に、彼はビーチボーイズや、ローリング・ストーンズ、フォークシンガーのウディ・ガスリーを聞いて、音楽に興味をもつようになります。

ジョーが18歳になる1970年までに、兄のデヴィッドは家族と仲が悪くなり、その年の7月にデヴィッドは突然自殺してしまいます。

デヴィッドは白人至上主義のイギリス国民戦線に入党していて、ジョーは兄の自殺がこのことに関係していると考えるようになります。後にクラッシュはこういった過激な極右のファシズムに抵抗する音楽を作っています。

ポイント②

1970年、私立学校を卒業した彼は、プロのの漫画家を目指しアート学校へと入学します。そこでプロの漫画家のコースを選択し学びます。同時に、この頃、彼はベジタリアンになります。

1973年には、イギリスウェールズのニューポートに移り、もう一度アートを学びます。

この時に、大学のミュージシャングループと出会い、助っ人sでヴォーカルや、リズムギターとしてバンドに誘われ、当時のジョーはバンドをしたり、墓掘りのバイトをしながら過ごしていたそうです。墓掘りのバイトってすごいですよね!

1974年、当時のジョーのバンドは解散し、彼はロンドンに戻ります。

その後、ストリートミュージシャンとして活動した後、ルームメイトとバンド「The 101ers」(ザ・ワンオーワナーズ)を結成しパブで、R&Bやブルースのカバー曲を演奏していました。

1975年には、ジョーは正式に彼の呼び名をジョー・ストラマーと変えます。

この時の彼は、ギターがあまり上達せず、コードをかき鳴らすほどしか弾けないという理由で、コードをかき鳴らす (strum)からストラマーと自虐的な名前を自身につけています。

ポイント③

1976年、当時無名だった「The 101ers」は、セックスピストルズとライブを行います。

ここでジョーはピストルズのパンクなパフォーマンスに衝撃を受けます。

その後、時々ライブのあとに会っていた、後のクラッシュのギター、ミック・ジョーンズにパンクバンドに誘われ、The 101ersを脱退。

ギター、ミック・ジョーンズ、達と共に「THE CRASH」を結成します。

1977年にはデビューアルバム「The Clash」を発売。その後は、3rdアルバム「London Calling」を発売。「London Calling」はアメリカにてヒットし、世界的に有名となります。

その間、クラッシュでのジョーは、ホテルの壁にThe Clashと書いて逮捕されたり、ライブの際に暴れた観客をギターで殴って逮捕されたりと、彼は尖った部分も見せています。

1982年、アルバム『コンバット・ロック』発売前に、ジョーが話題作りに失踪し、フランスのパリマラソンに出場したことから、メンバーの仲が少しづつ悪くなってしまいます。

1983年に、ジョーは結成当時の古株メンバーのミック・ジョーンズを、時間にルーズだからという理由で、クビにします。さらに、当時のドラムのトッパー・ヒードンはヘロイン中毒で脱退。

重要なメンバーが次々といなくなり、メンバーに新しいギターを迎え入れるも、クラッシュは路頭に迷っていきます。

その後、1985年最後のアルバム『カット・ザ・クラップ』を発売するも、ファンや評論家からボロクソにこき下ろされ解散を決意。10年に渡る活動の末、クラッシュは解散します。

解散後のジョーは、シド・ヴィシャスの映画「シド・アンド・ナンシー」に楽曲を提供したり、90年代なかばには、“ザ・メスカレロス”を結成し勢力的に活動していたものの、2002年12月22日、自宅にて亡くなります。50歳でした。

2003年のグラミー賞では「ロンドン・コーリング」が著名アーティストによって演奏され、The Clashはロックの殿堂入りを果たしています。

感想

彼の音楽は、正統派パンクに、レゲエを取り入れるという革新性と柔軟性、最高の音楽への追求の賜物でした。

終盤には周りから本物のパンクではないなど批判されますが、それは彼にとっての最高の音楽を目指した結果であり、それは彼にとってのパンクだったんですね。

彼は、行動することこそ全てというポリシーをもっていて数多くのアーティストが彼の生き様から影響を受け続けています。

ブルーハーツの甲本ヒロトさんは、彼についてこう語っています。

「ジョーになりたい、ジョーみたいになるには彼を真似るのではなく、誰の真似もしないこと」

かっこいいですよね。ジョーの生き様がこの言葉に表れてると思います。

今回は、ザ・クラッシュのジョー・ストラマーでした!

素材引用:

https://pixabay.com/ja/videos/

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詳細:(CC表示)

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